裏磐梯観光協会 公式ブログ

観光協会スタッフが四季折々の裏磐梯の情報をブログでお届けします。

ハートのコイ物語第2弾ー第6話

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2011年4月15日8:34 AM

 今日も黒部川はすべてを受け入れて静かに、来る冬のにおいを少しかぐわせて流れている。今日の私の熱った顔を川面を渡る風が少し落ち着かせてくれている。

裏磐梯に行って2週間、健人の音信不通は気にはかかるが、待つこと、待てる自分の心の準備は出来つつあった。

つまり日常を取り戻しつつあった昨日、健人から手紙が届いた。

初めに定期便の不通を詫びて、元気で居ること、大学を続ける目途がたったことを伝え、11月23日に帰ってくることを告げてきた。

新聞配達をしながら大学を続けられる目途がついて、学費も出してくれるようになった。今までの勤務態度を販売店が認めてくれて、奨学金のサポ-トをしてくれるようになったといっていた。

 携帯があると、私が近くにいる気がして、求めてしまいそうで、頑張る心がくじけそうだったから携帯を捨てた。電話も我慢した。自分勝手だったかもしれないと最後には少し心に余裕を見せた。

「やるじゃない、成長したね。」

「私は大丈夫だよ信じていたし。内緒だけどお呪いもしたし。」

泣き言を言って甘える術を知らないわけじゃないけど、すご-く我慢して強い、成長した女を見せてやった。

背中に回って、いっぱい健人のにおいは吸ったけどね。

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新聞配達をしている以上、大学が休みでも早々帰ってはこられないからということで、私が東京に行くことをお互いに納得した。 。

 裏磐梯のおばさんに元気で過ごしていること、ハ-トの鯉は恋に強いかもしれないこと、お呪いもあること伝えちゃおうかな。

結婚式にご招待するにはまだまだ時間があるけど、絶対来て頂こう。

明るくしてくれるおばさんに、明るく元気なお手紙を送ると決めた。気がつけば、いつもの散歩は、いつの間にか小学生のようなスキップに少しなっていた。黒部川の川面も少し微笑んでいるように見えたには気のせいだろうか。 

挿絵 BY 植木 庸子

ハートのコイ物語第2弾ー第5話 発見

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2011年4月13日8:38 AM

 翌早朝、もう一度毘沙門沼に行ってみる。

パワースポットかどうかはいずれにしても、今日黒部に帰る私は、宿でメモ用紙といって頂いた端紙に、荒川健人、鈴川晴子と書いて赤の二重線で囲ったものを、お土産屋さんの外壁の隅のほうに挟んだ。

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神社の絵馬の真似事なのか。何故か心は頂いたお酒のせいかはしゃいで、こんなことをしてみたくなった。

驚いたことにそこには、S50、4、30知恵、文夫の文字が隠すように小さく書かれていた。母は、親に見合いを迫られ、東京で働く、高校の同級生の今の父に相談することを口実に、家を空けたことがあるのを聞いていた。その期日と一致する。これは母だ。母も東京に行くかどうかを迷ってここまで来たのだ。その後、東京に行ったかどうかは聞いては居ないが…。

「おばさん、ハートの鯉と踊りはしなかったけど、昨日のキノコで元気になれた気がする。」

「本当はちょっとだけお呪いしてきたけどね。それは恥ずかしいから内緒」

「そうかい。よかったこと。今朝はなめこ汁だよ。原木ナメコって言って父ちゃんが作ってんだ。うめえから、どんぶりで飲んでけろ。お代わりもして」

「益々元気になっちゃう。やったあ」

挿絵 BY 植木 庸子

ハートのコイ物語第2弾ー第4話 

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2011年4月10日11:25 AM

十月、学祭の休みを利用して、やはり東京に行くことに決めた。

(病気か怪我で入院してるかも、お家の方だって、心配を抱えて毎日を過ごしているんだから)

と心に嘘をついて、新潟まで出てきた。ここから新幹線で東京はすぐだ。黒部から東京までの切符は買えなかった。

「会えない時間、会えない距離に負けるの」

「そんなにはしたない女なの」

気がついた時には、磐越西線に乗っていた。

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阿賀野川沿いに走る列車はやがて福島県に入って、喜多方、会津若松を過ぎる。このままいったら郡山。新幹線に乗ったら、東京はすぐだ。

「行きたい。会いたい。健人、あんたの匂い忘れちゃうよ」

 猪苗代、何処かで聞いたことのある名前の駅に降りた。紅葉の季節,裏磐梯という所が景勝地とのことで、多くの人がバス乗り場に向かう。

人ごみに紛れて、誰でもない誰かになるしか今心の置き場が無い。

気がついたら、多くの観光客と一緒に毘沙門沼のほとりに立っていた。磐梯山の火口壁を真正面にして、紅葉と赤松の緑、そして濃青の水面は、将に絵画に描いたよう風景に圧倒された。

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 ふと、沼に目を移すと、多くの人が携帯や、カメラを湖面に向けて、ハシャギながらシャッターを切っている。何かの雑誌で読んだ。ここには体に赤いハートマークの鯉が生息していて、その画像をゲットすると恋愛成就とか。

世間ではパワースポットブームがきている。ここもそうなのか。素の自分に返った瞬間、

「嫌なところに来てしまった。嫌だ」

「そんなに軟じゃ遠距離なんてやってられない」

「やったあ、画像ゲット」

観光協会で宿を紹介してもらい、宿へと向かった。宿では女の一人旅ということで警戒されるかと思ったが、

「うちは女の人の一人旅に縁があってね。観光協会では女の人の一人旅って言うとうちを紹介するんだなあ」

「父ちゃんと二人でやってから、大したもてなしも出来ねえけど、ゆっくりとくつろいでください」

「秋は、日が落ちると寒くなっから、今日は鍋だよ」

夕食はご主人が採った天然の舞茸、それにムキタケといった地のきのこの出汁が十分に出た汁で、これも地の大根をピーラーで薄切りにしたものをしゃぶしゃぶで頂いた。それに私の地元、富山の寒ぶりもしゃぶしゃぶで頂いた。

「毘沙門沼の鯉って有名なんですね」

「縁結びとか、恋愛が叶うとか言って、みんな写真とってんない」

「去年、家に泊まった娘さんがね、やっぱし、一人旅だったんだけんど、結婚してね、私たちも呼ばれて結婚式、奈良まで行って来たんだ。」

「来年はやや子も生まれんだ。そしたら、また奈良まで行くんだなあ、父ちゃん」

「本当かどうか分かねえけど、その鯉と一緒に踊ったんだと。そしたら元気になれったって言ってたっけなあ」

「おれは、おれの料理が元気にしたんだと思ってんけどもね。まあ、じょうだんだ。あははっは」

「父ちゃん、一人でばっかり飲んでねえで、お客さんにも一っぺい(1杯)ごっつお(ごちそう)したらいいいべえ」

ハートのコイ物語第2弾ー第3話 「不安」

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2011年3月11日8:37 AM

高校3年生になり、進路の選択をする時期が迫っていた。

私は女であること事を理由に県内の大学しか認められなかった。

「健人って名前は、未熟児で生まれたから健康にという意味もあったけど、外国に行ったとき、音が違和感を覚えない。男としてこれから、世界を意識して生きて欲しいという親父の思いがあって付けられた名前なんだ」

「政治、経済、文化、その他、すべての文化が集中する東京に居なきゃ世界が意識できないよ」

「情報なんて、今はパソコンで瞬時にいつでも、何処に居ても手に入るじゃない」

「空気、におい、皮膚感覚は得られないよ」

「そうしたら、私たちだって、繋がっている感じは、得られないことになるよ」

「僕たちに距離なんて関係ない。僕たちには長年育んできた時間があるじゃないか。離れているから、会ったときに、恥ずかしくない自分で居たい、いや、前よりも魅力的になって認められたいって頑張れるんだよ。高校の時だってそうだったじゃないか。週に一度だけだったからこそ、お互いが求めるんじゃなくて、自分に磨きをかけて、相手の魅力を理解できる自分になれて、相手を尊敬できて、信頼できて、大切にしたいって、繋がって生きていたいって・・・、何にも語り合うことも無くっても分かり合える関係を作ってきたじゃないか。それが好きってことだろう」

大学入学当初は、高校時代と同じように、土曜日、16時30分、定時に電話があった。アルバイトをするようになってからは、メールのこともあったが

「生きてるよ、じゃあまた」たったそれだけ。

生存確認のような便り。傍目にはなんと映るだろうと思うと笑うしかないが、それだけで十分だった。

 7月になって、生存確認定期便が途絶えがちになった。初めは当然のように病気、怪我を心配した。

やがてお決まりのように新しい女性の出現を疑いだした。都会の誘惑というやつに負けたのか。

今まで、何も語らずとも、お互いの心をお互いが占有していることを疑ったことは無かったのに。物理的距離に負けていくのか。だんだんといやな女になってゆく自分が居る。

私の不安、不信、心の隙間を見透かしたように声をかけてくる男たちが学内にいる。

「かまわないで居ると、分かんないよ私だって」

「こんなのたまんない。」

「はっきりさせたい」

「東京に行くしかない」

「確かめてやる」

黒部川の岸を、誰でもない誰かになって散歩してきた私の心の変化を、いつもと変わず、黒部川はそのまま受け入れ、何も語ることなく、唯流れてゆく。

荒川健人の心を埋め尽くし、その思いに応えるべく人間を磨いてきたはずの鈴川晴子は疑心暗鬼で心を固め、どうにもならない自分をこのまま放り出したい。

「どうしたらいいの、ねえ、このままだったら私は私でなくなっちゃう」

黒部川の川面を見つめ、彼が生まれるであろう山稜を眺めながらそんなことを問う散歩は続いた。 

ハートのコイ物語第2弾ー第2話 「歩み寄り」 

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2011年3月10日2:46 PM

 隣の市の県立高校に入学することになって、誰も知らない定時川岸散歩女も終わりになるだろうと思っていた。

そんな中、入学式の当日、私のクラスの列の中に見慣れた顔を発見した。こんな間近で彼を見るのは初めて。小学生から数えてみれば、7年以上彼を毎日のように見続けてきたのに何故か胸が高鳴る。小躍りしたくなるくらい心が弾んでくる。

同じ中学から来た同級生には気づかれてはいけない。「自制、自制」と心に言い聞かす。

「恋心」という言葉が口の端についてでたような気がした。

 黒部川の向こう岸から、一度も私のほうを向いたことの無い彼が、塾で同じクラスだった私の同級生に、私の志望校を聞きだしていたことなど全く知らなかった。 

 部活に忙しい彼と出会うことの無くなった川岸散歩は、時々思い出したように、昔の一人だけの「誰でもない誰か」になるようなかたちで再開された。

でも、週に一度だけ、彼の部活帰りに、同じ岸を一緒に歩く、『定時川岸散歩』が始まった。

(そのときの私は、誰でもない誰かになるのでなく、荒川健人に恋心を抱く、鈴川晴子でいたかったし、彼の心を埋め尽くす鈴川晴子でいたかった。)

二人は何を語るでもなく、穏やかな流れの上流、川が生まれるであろう山々を見つめながら歩いているだけで十分であった。

二人ともそれぞれの心の中をお互いが埋め尽くしていることを自覚できていたから。
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ハートのコイ物語第2弾ー第1話 「春は恋の季節。恋物語の連載を開始しました。」 

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2011年3月6日3:45 PM

9月も彼岸を過ぎて川面揺らす風は、今年の猛暑の夏が嘘のように 涼味を帯びて心地よい。急峻な谷を駆け下りここまで来ると、黒部川も一息ついて、キラキラと陽光と戯れながら白金の帯となってゆるやかに流れる。

 6月に突然の病で父親を亡くした健人は、8月に初盆であるにもかかわらず、帰省しなかった。

告別式の翌日、「自分でどうにかするから大学だけは続けさせてくれ」と言って東京に帰って以来、家にも連絡もしてこないとの事。(お彼岸には、もしかして帰ってくるかと思っていたのにどうしているのだろう。) 

子供の頃から、時間を作っては黒部川の岸を歩くのが日常になっていた。特に目的があった訳ではない。黒部川のその時々の様相、水音に身を添わせているうちに、何もかも忘れ、今にして思えば心を解きほぐしていたようだ。そんなに心に掛かるものがあった訳でもないのに、一人になるのがというより、自分という我執を捨てて、カラッポの誰でもない誰かになるのが好きであったようだ。 

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 そんな日々を過ごしていた学生時代、黒部川の対岸を友人と家路を急ぐ、エンジ色のジャージに白い帽子の少年の存在に気付いた。中学生になると、部活を終えて帰るのであろう、自転車に乗っていつも定時に帰宅する彼の姿があった。
 初めは、私の日課のようになっている、誰でもない誰かの時間を妨げる、彼の存在は迷惑なものであったが、いつの間にか、彼と出会うことを楽しみにしている、誰でもない誰かになることが楽しみになっていた。定時帰宅部活男に、生活を合わせるようになった定時川岸散歩女が誕生した。

ハートのコイ物語 第11章 最終話

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2010年12月1日5:08 PM

11)

彼は実家の酒屋の後を継ぎながら司法試験の勉強は続け、弁護士の少ない郷里で人々のために働こうと決めたようだ。

口先ばかり、指先ばかりの男では無いからと言って、今時めずらしく長い文章の手紙が2日と置かずに和歌山から届く。お陰で彼の存在が家族中に分かってしまい、毎日肴にされるのには少し閉口したが、来月には身辺整理の為に上京するとのこと。そして、私の両親に会いたいとも綴ってあった。早くも両親に会いたいというのは、結婚も意識しているのかな。寿退社の報告とかをしなくてはいけなくなりそうかな。

弟は勝手に
「俺も和歌山でバイク屋をやろう。先輩の近くなら心強いや。」
などとのたまい、父まで奈良で発掘でもやるかななどと浮ついている。母は母で、
「東京を離れるのはいやだわ。関西って食生活も違うでしょ。」
私は、彼の為ならどこにでも行ける。彼は私を求めているのであって、あなた達と住むわけではないのに…と心の中で思いながら家族の話を聞いていた。

裏磐梯のおじさん、おばさんにお礼と、その後の経過報告を書いて手紙を送った。裏磐梯からは、とても食べきれない程のトウモロコシが大きな段ボール一箱届いた。

私が子供の頃はご近所におすそ分けなんてのがあったが、そんなこともなくなりつつある昨今、
「よーし。私がご近所に配ってくる。私の親戚の美味しいトウモロコシだ。」
と張り切って配りに出かけた。

裏磐梯からはその後も、相手を連れて来い、結婚式はいつだなどと、すっかり親戚気分の便りがくる。10月になったら彼を紹介しに裏磐梯に行こう。紅葉で燃えるように赤く染まる磐梯山の麓へ。もちろん鯉くん達にも彼を紹介しよう。ハートの鯉くん、今度は彼と会いに行くから待っててね。きっとあなたが結んでくれた縁だよね。

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ハートのコイ物語 第10章 再会

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2010年11月30日11:09 AM

10)

(私は彼に私の気持ちを伝えなければ…。)

彼はあそこの屋上にいるのだろうか。いなかったら今日こそはあのビルに行って、彼の所在を確認しよう。このままでは何も進まない、何も変わらない。あの日常に逆戻りだ。

やはり、今日も彼はいなかった。

(勇気を出して、帰りに行ってみよう。)

電車が駅に着き乗客が動き出す。えっ、目の前に彼が立っている。ドアの前に立っている。

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(どうして? どうしたの?) 

訳も分からず立ちすくむ私の体は、電車に乗り込む人々の群れに押し込まれる。彼はあわてて、携帯の番号を書いた端紙を手渡した。

彼は司法試験の勉強をしながら、あのビルの管理人をしていた。遠くを見ていたのは、勉強に疲れた目を労わるため。見ていた方向は、体が弱った父親が実家の酒屋を継げと言ってきて決断がつかぬままいた、故郷の和歌山の方向だったとのこと。そんな中でたまたま私たちは目があったのだ。
さらに驚いたのは、彼は弟の大学のツーリングサークルの先輩で私の家に何度か訪れ、私のことを知っていたこと。後輩の姉で、しかも、将来も明確でない状態で私に言葉を掛けることが彼を躊躇わせ、そのままになっていたこと。偶然、再会の機会を与えられたが、司法試験をとるか実家に帰るかの決断もつかぬまま、管理人の契約が切れる7月が過ぎてしまったこと。一度和歌山に帰り父親と話をし、将来の方向を決めてから私に逢おうとしていたこと、などが一気に彼の口から語られた。

ハートのコイ物語 第8章 コイの悩み

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2010年11月16日1:42 PM

8)

(これでいいの?)

(でも、彼はもう居ない。名前だって知らないし。)

遠くを見つめ、目が合うとはにかんだように微笑む彼のことで、私の頭の中は一杯になっていた。

(いつものように、逃げる、消す、が出来ない。どうしたらいいの?)

(自分の気持ちを確かめて、自分の声で伝えれたらいいのに…。)

自問自答の気持ちを抱えたまま、観光客で賑わう時間帯を避けて毘沙門沼に立ち寄ってみる。今日も待っていたかのように鯉が寄ってきた。変わらない、変わりようのない生活の鯉は、私と似ている…。

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(変われないって悲しいよね。あなた達もそうでしょ。)

そんな独り言を言いながら鯉の群れを目で追っていると、群れから離れた一匹の鯉に気づいた。彼は昨日と同じように少し離れてこちらを見ている。

(あなたはどうして群れないの? 何で離れたところから私を見ているの?)

その姿は、通勤時間帯に一人で雑居ビルの屋上から遠くを見つめている、人と群れない彼の姿を思い出させる。
それから日課のように毘沙門沼を日暮れ時に訪れていた。

「お客さん、いつも夕暮れにどこに行くのかね。来た時にくらべて目に光が出てきたようだから、自殺なんて心配はしてねえんだけども、もう4日目だよ。ウチには何日居てくれても構わねえけど…。」

「おばさんの食事は美味しいし、何もしないことが目的のようなものだから、ご迷惑でなかったらもう少し置いて下さい。」

ハートのコイ物語 第7章「心地よい時間」

カテゴリー: ハートのコイ物語 — 投稿者: admin — 2010年11月14日5:28 PM

7)

宿の主人は、こちらの心のありようが分かるのか適度な距離を保ちつつ、さりげなく接客してれる。それが心地よく宿に戻ると気持ちが落ち着いた。

地元の高原野菜を使った食事は鮮度が良いだけに、素材の力を十分感じられ、見せかけでない調理法と相まって、旨みが直接訴えてくる。

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翌日の予定を尋ねるでもなく、地の言葉で微笑みを絶やさない語り口調は父の田舎を訪ねる時の気安さにも似ている。朝は遅くまで寝かせてくれた。背中に張り付いていたものがほぐれたような心地よい疲労感の中、宿の方の微笑みが私にも伝染したみたい。

「おはようございます。」

自分の発した今朝の言葉の透明な響きに、久しぶりに自分の声を思い出したような気がした。

お決まりの朝食ではあったが、丁寧に手作りしているのがわかるお料理は、私の昨晩の食事の量から考察したのか、こちらが気兼ねしない品数と量の食事だった。

(この宿に甘えてしまおうか。)

居心地の良さに、ここなら心を解き放つことが出来そうな気がした。

「今日も泊めて頂けますか?」

「よろしかったらどうぞ、お部屋はそのままでよろしいですか?」

何をしようと決めているわけではないし、部屋を流れ過ぎている初秋の風に身を任せて過ごすのも心地良い。家や職場には、今朝の「おはようございます」のように自分の声を発する私はどこにも居なかった。私が今まで自己主張したのは唯一短大の学部決定と、ビルの屋上の彼に胸元で小さく手を振ったことくらい。でも、彼に手を降ったのは、電車の中という安全地帯に身を置きながら…。

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