伊達政宗、上杉謙信、直江兼続も通った会津街道

■旧米沢街道
裏磐梯がある北塩原村には、会津街道(又は若松街道、桧原街道ともいう)とよばれる米沢(山形)と若松(会津)を結ぶ街道が通っています。米沢より関町を通り、網木、桧原大峠(又は境峠)を経て、大塩(北塩原村)、熊倉(喜多方市)、若松(会津若松市)へ至るこの街道は奥羽街道から日光街道へでる重要な交通道路でした。街道の発祥年代は不明ですが、街道沿いにある文化財や遺産などからの推測では800年代にはすでに開通していたものを考えられています。古来より磐梯修験や羽黒修験などの山岳信仰の通路としての役目も果たしていました。
会津街道と宿場町(裏磐梯の桧原、大塩)の賑わいは明治時代末期まで続き、千年以の歴史の中では数多くの有名人や武将達も往来しています。米沢の古刹・笹野観音堂は806年に弘法大師空海の高弟・徳一上人によって中公開基され、同じく長泉寺は空海の従弟僧・伝隆の開山と伝えられています。徳一は807年(大同2年・磐梯山噴火翌年)に磐梯山恵日寺および、柳津町の霊厳山福満虚空蔵尊圓蔵寺を建設しているところから、仏教が桧原(裏磐梯)超えで流布された可能性も指摘されています。
12世紀には西行法師も会津街道を通ったとされ、桧原、大塩などに歌を残している、西行は「平将軍の乱」を平定した俵藤太(藤原秀郷)の子孫で奥州・藤原氏、信夫・佐藤氏とは同族であることから、平泉の藤原秀衡のもとを2度訪れています。奥州征伐以前は、出羽国置賜郡が奥州・藤原氏の支配でもあった点からも西行の桧原越えは頷けます。 16世紀、伊達家と芦名家との確執から桧原の地は幾度か戦いの舞台となっています。また、この頃、芦名方の穴沢氏が桧原の領地となり街道の記録が密になってきています。「桧原」の地名は穴沢俊家が改めてからの呼称です。元来は「桧木谷地」と呼ばれていたのです。 17世紀にはいり、上杉氏が会津、そして米沢を治政するようになると、街道は整備されました。時は江戸時代を迎え、世の中は安定を求めていました。将軍の代が替る度に江戸幕府より巡見使が派遣され、藩政や民情視察の為に街道を通過しました。桧原金銀山の開発が盛んに行われたのも同時期で、最盛期には人口が1,500人を超え、「桧原千軒」とも伝えられています。
18世紀から19世紀半ばまでは、多くの名士や多くの名士や文人墨客が会津街道を通っている。地理学者・古川古松軒の「東遊雑記」(1788年)日本全図を作成した伊能忠敬翁の「伊能忠敬測量日記抄録」(1802年)、豪商で俳人でもある遅日庵の「小千谷日記」(1804年)、幕末の思想家・吉田松陰の「東北遊記」(1852年)、などにその様子をうかがい知ることができます。その他、頼山陽の子で勤王家の頼三樹三郎も蝦夷地探検の途中に来遊しています。
そして、19世紀後半、「戊辰の役」が勃発し京都守護人職および将軍後見役を務めた会津・松平家は勢いに乗った官軍の大部隊を迎え討つ事になります。旧幕末軍の残党達は会津に集結し、日光東照宮の本尊も運び込まれました。1868年、会津藩の救済を求め「奥羽越列藩同盟」成立の為、拡販の急使達は会津街道を飛び回るが、願いも空しく「会津攻め」は戊辰の役を締めくくる「天王山」として決行され、凄惨な戦いの末「会津鶴ヶ城」は落城します。
明治時代に入り、米沢と中央を結ぶ為、栗子トンネル工事が着手され1881年に栗子道路(万世大路)が開通しました。これに伴い、「会津街道」の必要性を失い衰退の道を辿ることとなります。
現在は、米沢市網木から桧原・金山の間を通行する車は殆どありません。 「千年以上にわたって行き交う人間達を見守り続けた会津街道」は今、静かに眠りに就いています。

